超雑日記ブログ

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上達のコツは学生時代に”上達サイクル”を身に着けているか否か


努力をしているわりに、全然成果が出ないな…と思い悩む日が続いている。なぜこうも上達しないのか、なぜ成長しないのか。

例えば、平均すると週に1冊以上は本を読んでいるが、その読書がイマイチ身を結んでいない気がしていて、それがなぜなのかと思い悩むことが増えていたが、最近になって1つの答えのようなものを感じている。

それが、「上達や成長のサイクル」を自分が身に着けていないことにあるのでは?ということ。

逆に言えば、努力が成果に繋がる人は、それを身に着けている人だと思う。そして、それは学生時代を真面目に送ってきた人は標準的に身についていて、僕のように不真面目に送った人間が獲得できていないものなのでは?と思っている。

そんなことをちょっと書きたい。

なぜ上達サイクルを身に着けていることが大切なのか

上達サイクルを身に着けていることが大切だな…と最近やたらと実感しているのにはいくつか理由がある。ぎゅっとまとめると次のようなことに集約されるかもしれない。

  • すぐには上手くならないし、すぐに賢くもならないことを体験として理解しているのか否か
  • 上達サイクルの有無で同じ努力でも差がつくが、差に気付いた時には埋めきれないほどの差がある

何かを練習しても、勉強を始めたとしても、それがすぐに身に付くことはない。日々の積み重ねてで少しずつ良くなっていくものではあるけど、これを体験として理解しているのか否かは大きいと思っている。

すぐには上手くならなくても、いずれ上手くなるという成功体験を持っている人は、序盤にイマイチ成長を実感できなくても「臨界点を超えるまではこんなもん」という割り切り方ができるはず。でも、その成功体験を持たない人は、今の自分のように成長しないことに焦る。

 

それでもとなんとか頑張って努力を重ねてみて、それがなかなか身を結ばない。方や、同じようなことを後から始めたのに、もう自分を追い越していると感じる相手がいた時に愕然とする。

その差は相手が上達サイクルを身に着けているためではないか?というのが僕の今の仮説ではあるけど、上達サイクルを身に着けて上達したから追い抜かされた側が、今のやり方、今の考え方で追いつけるわけがない。差はドンドン開いていく。そんな埋めがたい差が上達サイクルの有無で生まれる。

 

僕はこの体験を高校時代の鉄拳と言う格闘ゲームで実感した。そこそこうまいという自負があったけど、後から始めた友達がみるみる上達して、どうあがいても勝てなくなった。

その友達は毎日1時間、技を出す練習を重ね、どういう状況でどういう技を出せば効果的なのかを研究していたが、自分は闇雲に対戦だけをやっているので何も上手くならない。そこで練習の大切さに目覚めていればよかったのに、「才能の有無」という言い訳で逃げてしまった。

今思えばそこにあったのも上達サイクルの有無なのだと思っている。

その友達は当時は進学校に居たが、高校卒業後は単身でオーストラリアに行って旅をして、帰国後は大工をし…と個性的な人生を送っているが、上達サイクルを持つ彼ならそれができるのは当然だよなという妙な納得感が今もある。

 

そんな上達サイクルの習得ができるのかできないのかは学生時代の過ごし方が大きいとも思っている。

上達サイクルと学生時代の過ごし方に思う事

学生時代は”上達サイクル”習得環境そのもの

僕は学生時代はあまり真面目に過ごさなかった。あまりなんて控えめに書いているけど、先生から見れば、いう事を聞かず、何事にも消極的で、邪魔ばかりする嫌な生徒だったと思う。

勉強もスポーツも、他人が決めた事をやるのはやだね!と言わんばかりに拒絶していた。

だから、練習や努力をして上手くなったという体験が非常に乏しい。

やっかいなのが努力をしなくてもそこそこうまくやれたという体験があること。中学時代も勉強をほぼしなくてもテストで中位に入れたので、勉強をする意味や価値を軽く見てしまった。

その結果、練習サイクルを身に着けるキッカケを全てフイにしたように今になって思っている。

練習や努力が成果につながる成功体験の大切さ

そんなわけで、努力や練習をすることの価値に気づかないまま10代を過ごしてしまった。

ここが本当に大きな大きな失敗だったと思っている。

練習や努力の成功体験が希薄ということがもたらすのは、あらゆるものを「才能論」のようなもので割り切って見てしまい、練習や努力をする前に諦めるという”諦め癖”でした。

これができるあの人は才能があるから、自分ができないのは才能がないから。だから無駄なことに時間を使うのは辞めようという意味不明な合理化を図り、練習や努力を避ける癖が身についた。

これが努力や練習によって成長する成功体験がある人なら違ったのかもしれない。

もっと練習や努力をしなければあの人のようになれない、望む結果は得られない。そう解釈して、努力や練習に時間を使い、望む成果に手が届くようになるのだと思う。

成長というイメージの誤解

最近になって気づいたことに、上達サイクルを持ち合わせてないまま生きてきたことによって、成長するということは何かがわからないという根本的かつ致命的な欠点を持っているということ。

例えば、自分は週に1冊は本を読む習慣を20年以上は続けているが、その本の内容を覚えているのか?というと覚えていない。改めて読めば思い出すが、キッカケがなければ思い出せない。それでも良いと今までは思っていたけど、最近になってこれはおかしいと感じ始めている。

読んだ内容を本を見ずに思い出せて、何なら内容について語れてこそ、その本の内容が自分の中に入っていると言えるのでは?と。それが上達と言えるはずだ!と。

これ、テストを真面目に受けていた人なら当たり前に理解していることだと思う。勉強して頭の中に入れたことをテストで出せてこそ価値がある。僕はそれを理解していないまま今まで来ているので、インプットによってアウトプットが変質することに意識が向いていなかった。

アウトプットに変化がないので、現実は大きな変化を見せないのだとようやく気付いた。

つまり・・・

学生時代を真面目に送った人は、僕が50を前にしてようやく気付いたようなことをすでに10代で当たり前に理解し、そして実践を続けているという現実に直面して凹んでいる。

見方によっては、それでも今気づけて良かったと言えるけど、流れた時間は戻ってこないので、それが本当に悔しい。

だからこそ思うのは、学生時代、勉強でもスポーツでもなんでもいいけど、それを真面目に打ち込むことで得られるのは人生の進路ではなくて、”上達サイクルを回す習慣とその成功体験”だと思っている。

 

なぜなら”出来ない”と直面した時に出てくる選択肢が変わるから。

これでは無理だ、このままではダメだと思うことは人生の中で何度もあるけど、その時に「運が悪い」「才能の違い」「相手が間違っている」といろいろな理由をつけて状況を解釈することはできるけど、最も大きな実りに繋がるのは、自分を成長させるという選択肢を取れる人だと思う。

例えば、失恋をしても、悔しいから自分を磨こうと思うのか、これも運命だと割り切ってしまうのか、どちらも正解と言えば正解だけど、自分を磨こうとした人のほうが失恋から得られるものは多くなるはずで、それは将来、よりよい出会いに繋がる可能性を高めてくれる。

しかし、そういう辛い現実に直面した時に”自分を成長させるべきだ”と思えるのは、努力や練習で成長して現実を変えられた体験の有無が大きいと思っていて、その体験がある人ほど、”成長”の優先度が高くなると思うし、そういう人は複利的に自分を成長させることになるので、時間とともに素敵で魅力的になる。

大げさでもなんでもなく、上達サイクルの有無とその成功体験が人生を大きく左右する。

 

それを身に着けるために学生時代には勉強や運動や芸術などに打ち込む環境があるのだと思うので、真面目に学生時代を送った人はきっと人生はうまくいくし、そこでイマイチ頑張れなかった人は、そこで得られるはずの”上達サイクル”を得ていないという前提で今の自分を見直すことで新たな発見があるんじゃないかな?と思う。

これを書いている僕自身は、成長とはどういう事なのかがわからずにいたということが分かったので、アウトプットの質の上昇につなげるための努力を重ねることを意識づけている。

それが実を結んだわけじゃないけど、その角度で自分を見つめ直して努力を重ねることが正解のような予感はしている。

 

何かで空回っている感がある人、よければ参考にしてみてほしい。