超雑日記ブログ

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罪悪感と許せない気持ちの綱引き


ブログを書くと決めて1日。色々と思うことがある。

母の一言で自分を変えようと思った。思ったけど、決して前向きな気持ちでのスタートではなく、ぬるっとしているようなどろっとしているような、ヘドロの中から立ち上がるような気持ちで自分を立ち上がらせようとしている感覚がある。

きっとそれが正しいのだと思う。心地よく前向きに爽快に!なんて変身の仕方ばかりではないのだと思う。

ただ、何が自分の中にねばりつくかのように、まとわりついているのかを明らかにしておいたほうがいいのかな?とも思う。

罪悪感がまとわりついている

自分の中にあるのは、得も知れない罪悪感。薄くて小さなものだと初めは思っていたけど、どうやら1日経って残っているのは罪悪感という感情かもしれない。

何の罪悪感かというと、母親に対して何も恩返しらしい恩返しができず、しかも、自分のせいだと母親に思わせてしまった自分の生き方、そして、自分の能力のなさに絶望をしている。とにかく今は自分を責めている。

責めないようにと思ったとしても、やっぱり責めてしまっている。

めちゃくちゃ仕事をしよう!と思っている今は、その罪悪感を向き合わないためにそうするしかないという判断なのだとも思っている。そして、そういう判断をしている自分にすら罪悪感を感じる。

とにかくこの罪悪感というものが自分のすべての行動、判断に否定的な気持ちにさせる。

 

違和感として強く感じるのが、自分の判断は合理的だったと思っているのに、罪悪感が絶えないこと。

つきつめて考えていくともっと良い判断や良い行動があるのかもしれないが、それでも現時点で最良の判断をしているとは思っている。

でも、どこかでまとわりつく罪悪感がある。

母親を悲しませたことへの罪悪感しかないと思う。何をどうやっても、今の自分が母親を悲しませた事実は変わらないのだから、そう簡単に消えるものじゃない。そして、この罪悪感がなければ自分は変われないのだとも思っている。

罪悪感と同時に拒絶もある

ただ、ややこしいのが、自分には自分なりの言い分がある。

やや認知症が入っているかもしれない母親、自分の言った事、した事を微妙に覚えてない。

小さなころに自分のことを散々殴り、弟に対して「兄ちゃんのようになったらあかんで」と毎日のように告げ、自分に力がついて暴力でかなわないとなると、こちらが反抗的な態度を取るたびに親戚を集めて、多勢に無勢で押さえつける。そんな日々だった。

数年前にも「あんたはあーでもしなくちゃあかんかったんや。でも失敗作やわ」と面と向かって言ってきた。大人になり、40代の半ばにもなってこんなことを言われるのか…と怒りと悲しみでいっぱいになり、モノにあたってしまった。

それを先日の帰省時に、「数年前に怒ってたけど、あれはなんやったん?って今でも思うねん」と言ってくる。何も覚えてない。失敗作だと言ったこともないし、小さなころにあんたを殴ったこともない、弟に対して「兄ちゃんみたいになるなよ」と言ったこともない。そう断言し始めている。

ふざけんなよ…という怒りが湧き上がる。この憤りのやり場がない。

罪悪感と怒りの綱引き

母親に「自分のせいだ」と泣かせてしまったことへの罪悪感と、そうだ!お前のせいだろ!という怒りを感じる自分。どちらの感情も同居していて、これの落としどころがない。シーソーのように一方に傾いては元に戻り、反対に倒れては元に戻りを繰り返している。

自分を育ててくれた感謝の思いはある。愛情を感じたこともあるし、母親に対する愛情がないわけではない。ただ、その中で痛い思いをしたり、悔しい思いをしたことを我慢したことをなかったことにすることは許せない。

その繰り返しなのだと思っている。

一方を許すと、許したくないことも受け容れなくてはいけない。 かといって、すべてを許さないと線引きすることもできない。

すごく中途半端な状態で今がある。

だから・・・

確実に言えるのは、自分自身は自分自身を大切にするしかない。たとえ親と言えども、自分の尊厳や思いを大切にしてくれるわけではない。なんなら一番近い距離でそこを傷つけてくることもある。

だから、自分を全肯定することができるのは自分だと割り切ろうとしている。親ですら、子供を全肯定できないんだし。それどころか、親に自分自身への肯定を期待することで、甘えに繋がっていると思っている。どこかで我慢してきたことを褒めてほしい認めてほしいと思っているのだと思う。

でも、それが叶わずに悔しい思いをしている部分があるのだと思っている。 そして、自分の親にそれはできないのだと割り切るべきなのだとも思っている。

50年近く触れて来て、それができないことがようやく理解できるようになってきている。

自分自身が自分自身を肯定する。

そうすべき時期が来ていて、それができないことへのぎこちなさが罪悪感と混ざってヘドロのようにまとわりついているように感じている。